2010年11月11〜12日、北海道にある
北星学園余市高校を訪問しました。
少し前、ヤンキー先生母校に帰る、で有名になった高校ですね。
きっかけは、訪問する1週間前に、関西こども文化協会さんを訪ねていったことにあるのですが、即決して行ってほんまよかったなぁ、というのがすっと出てくる感想です。
今回の訪問でとても良かったのは、関西こども文化協会の代表理事の蔦田さんが、保護者OB(っていうのかな?)だったことにあるのではないでしょうか。
至れり尽くせりだなぁ、と感じたのは、どの訪問者に対してもなのかもしれないですが、担任を持ってはる先生方とまじめな話から、お酒が入った話までできたり、生徒の下宿先を訪問させてもらったり、授業を自由に見させてもらったり、生徒会の生徒たちと交流したりと、自分が描いている「学校訪問」像からかけ離れた2日間を過ごさせていただきました。(要は、見知らぬ人たちに対してというより、関係者向けの対応がなされていた感があったという感じです。)
とりあえず、ここでは自分が感じたことと、ステキだなぁと思った言葉を載せることにします。
□先生方との懇談
・一人の生徒に教師全員が関わる
・養護教諭、スクールカウンセラーの役割は担任が担う
・生徒とのやりとりを見せる
・指導を密室でやらない
・生徒がないがしろにされていない自覚
・教師が働きやすいと感じる職場
・言いたいことを言える教師集団
・問題がたくさん起こるほうがいい
・教室に権力を存在させない
・「姿」を見せる
・教師が「大人」であるということ
生徒は全国からやってくることもあってか、現在学校教育の中で浮かび上がってくる事象(「問題」とは言いたくないので、事象:発達障がい、心身症、セクシャルマイノリティ、等々)は、全国的に話題になる数年前に学内で浮かび上がってくる、とのこと。
そういった事象をほっておかずに、常に対応し続けている印象。
何よりも「集団」というものに価値が置かれているところが素晴らしいなと思います。(←自分の現在の関心事項も集団なので。グループ内の相互作用の可能性はすごいと思うので。どう「すごい」のかは、ただいま論文内で言及しようとしております。)
同じ「集団」で児童・生徒をみる「学び合い」で物足りなかったものが、北星余市高校にはありました。それが、教師という大人の役割。
教員でありながら、一人の大人として生徒に関わるというスタンス。だから、一人の人間として生徒という人間とぶつかる。そのやりとりから逃げない。
これまでの生活の中で排除されてきた生徒が多いからこそ、一人一人の生徒とぶつかりあう。話し合う。やりとりする。だから、学校に通えなかった生徒も、通えるようになる、卒業できる、のだろうなぁ、と感じました。
あと、もっと素敵だなと思ったのが、教師集団が質の高い精神的に解放された集団であるか、というところを絶えず努力されているところ。
これは、2日目に前校長をされていた方がおっしゃっていたのですが、教師自身が自分らしい有り様で生徒と接することが必要である、と。
いま大変な思いをして教員生活を送っている後輩は、どうやら職員室の居心地がとても悪いよう。先生同士のコミュニケーションが成り立たない。新採で数ヶ月で学校をやめなくてはならなくなった同輩も、クラスの子どもたちや保護者との関係性ではなく、教員内での関係性によって、でした。
いま、「わたし」が属する環境が、「わたし」でいられる場でないとすれば、その抑圧されたものは、どこかでひずみとして浮き上がる、のではないでしょうか。
教員という、生身の人間を数十人も一気に相手する「仕事」であるならば、「わたし」が属する場が誰にとっても居心地の良い場でないと、クラスにひずみが出てくるのではないかと思います。
だから、まず教員である自分たちが、自分たち組織の環境について気を配る、この集団内で、老若男女がその属性にとらわれずにモノが言えているかどうかを、指標にして。
うまくいっている会議やミーティング、そして組織は、すべての構成員が言いたいと思うことを言い、それをすべての構成員が聴くことができる状態であると思います。
だからこそ、そこで教員自身が納得して行動し、生徒に関わることができるのではないのかな、と思いました。
□下宿訪問
・大人が接すること
・上級生と下級生の存在
・親ではないけど親みたいな存在
2つの下宿を訪問させてもらいました。
やはりここでも感じたのは、「大人」が関わることの重要性。
すべての下宿を見、そこのおじさん、おばさんとお話しすることができたら、また違う見方もできるのかな、と思います。
実際、その下宿にいる子どもたちの中でどんなことが起こり、そこでどんなやりとりが起こっているのかは見えなかったので。
訪問した下宿のうち一つは、おじさん、おばさんの目の前で起こるやりとりに対して、おばさんの感じたことを言うというやりとりがなされたりするようで、それはとても素敵だなぁ、と思いました。
でも、すべての下宿がそうなのかは、わからないなぁ、とも思いました。
□授業見学
・「授業聞かんのやったら、出て行けー!」的なことを言うような先生はいないようだ(ケータイが鳴ろうが、音楽を聴いていようが、ゲームをしていようが、それぞれに対して、「今はその時間じゃない」とか「教科書を見る」といった言葉かけがなされる)
すべての教員の授業を見たわけではなく、しかも短時間ずつだったので、なんとも言えない、、けども、あきらかに、自分が受けていた高校の授業風景とは違いました。黒板とその前にいる教員、そしてその教員が授業する、という光景は一緒なのだけども、その授業を受けている生徒の雰囲気が違う。でも、やんちゃそうな子もおとなしそうな子も、一緒の教室で静かに授業を受けている、というのがおもしろいなぁ、と思いました。
□生徒会との交流
・見捨ててくれない
・先生が生徒を頼りにしてくれる
・興味をもってもらえるのが嬉しい
・こんな大人になりたい!と言える高校生
・先生がくじけない
・一生懸命やってたら誰かが見ててくれる
・先生に対して、引くところも覚えてほしい、と言う高校生
交流を終えての感想は、とても人間らしい高校生だなぁ、と感じました。
言葉の紡ぎ方が、感情的ではないけども、感情からきている言葉であると感じました。
言葉の軽さがない。そのとき感じたことや考えたことを、言葉にしているんだなぁ、という感覚でした。
それが、その場にいた高3生全員に感じたことであるから、すごいなぁ、と感心。
とくに、「見捨ててくれない」と一人の高校生が言ったのに、とてもびっくりしました。
見捨ててくれない、なんて言葉が出てくるなんて。
誰かから関わることを放棄された(=見捨てられた)経験をしていない限り、出てこないだろうなぁ、と思いました。
それだけの経験をしている生徒が多いのだということも、高校生たちの口から出てくる言葉で実感。
生徒たちの言葉からも、先生方の向き合い方が伝わってきました。
一人の生徒のためにやったら、すべての生徒のためにやらなあかんのやから、やめておけ。
というのが、まかり通っているようです。ふつーの学校では。
でも、この学校は、まず一人の生徒のためにやれることをやる、のだそうです。
「先生」という属性の人たちで、初めて超受容的な人に出会いました。
救われるなぁ
2日間を通して、やはり考えさせられたのは「自分」でした。
世間が敷くレールからは一応外れず、「非行」という行動にも走らなかったけども、不登校にもならなかったけども、そうなっていてもおかしくなかったんじゃないか、と今だからこそ思うのです。
自分の場合、「家」にいることが苦痛で苦痛で仕方なくて、だからこそ外に目が向いて、外でたくさんの「大人」に出会って、その「大人」が自分に今も関わり続けてくれている、だからこそ今の自分があるのだと思うのですが、学校でも「大人」に出会ったのも大きかったんですね。
中2,3の担任の先生。中3の国語の先生。高校水泳部の顧問。高3時に受験倫理を教えてくれた先生。
先生、だけども、大人、でもあった、と思います。
自分に影響を与えた先生は、大人だったんだなぁ、と今になって気付きました。
自分がいま、小学生から高校生までの子どもに関わる中で、一番心がけているのが、「まつむらさゆこ」として、関わること。
自分が感じることを言葉にして、それをぶつけること。
もう、だいぶ無意識に、「まつむらさゆこ」で関わっていると思います。
だからこそ、今回、北星余市高校に行って、こういう自分のスタンスでええんや、というのを再認識できたのが、一番の気付きでした。
これでいいのだ、と。
そして、やはり自分の中で、親との関係、というのがつきまとうな、というのも、今回高校生と話していて感じました。
よっぽど、この子たちの方が、客観的に見れるようになっているなぁ、と。(実際親と接しているところを見ていないのでわからないですが)
自分が変われば、親との関係も変わる、と最近は思っていて、自分から親へのアプローチを変えようとしていたのですが、相手の変わらなさにイライラしてしまい、しんどくなってしまいました。
まだまだ親との関係は続く(のかもしれないし、明日終わるのかもしれない)のだからこそ、性急にならなくても良いや、と今は思っています。
そんな、自分のこともふり返り、また自分について知ることもできた2日間でした。